そもそも働くとはどういうことか
子どもの貧困対策特化の支援者が足りないという状況に、その支援者を増やすことが処方箋になるのか。
社会全体、みんなが少しずつ少しずつ「自分もしんどい」と感じる時代に、そこに注力できる人手がいったいどれだけ地域に眠っているのか。
そう考えた先には、「支援が必要な人を探し出すとみんな支援が必要だよね」という結論が待っている気がする。
となると、人がその人らしい生活を営むために他人と分業をして、暮らしや生活、人生を豊かにするのならば、この「みんな生きづらい社会」はそもそもその分業がうまくいってないのでは。
その時、やっぱり人は、
「楽をしている人=仕事をしてない人」探しに意識がいってしまうのだけど、探して無理矢理働かせてもうまくいかない。
なぜなら問題は、
「その人が働くから働かないか」にあるのではなく、
「働く仕事が、働いている本人も含めて本当に他の人を楽にできているかどうか(支えられているかどうか)」
とちょっと違うところにあるのではないかと考えてみる。
ちょっと視点を変えて、
今食べているご飯は誰が作ったものなのか、
今着ている服は誰が作ったものなのか、
今座っている床は誰が作ったものか、
今手にしてるスマホは誰が作ったものか、
と自分の暮らしを支えてくれてる人を想像していくと、膨大な数の人の支えのおかげで成り立っていることがわかる。
でも単純に考えて、少子高齢化でそういった支えてくれる人が目に見えて減っているんだったら、暮らしも少しずつしんどくなる。(自分でやらないといけないことが増える)
だからこそ、ちゃんと少なくなった支える手でも暮らしが成り立つように、工夫をしなければいけない。
今まで関わらなかった人とも関わらないといけないかもしれない。
ということで、現実的に子どもの貧困対策特化の支援者をそんなに増やせるわけでもないような気がするので、発想を変えていく必要がある。
どう生きづらくなった子どもやその家庭をを支援者・非支援者の関係なく支えるか。
つまるところ、その子どもに接点のある人達がひとりの支援者に任せきりにならないように、みんなが微力な支援者になるしかないのでは。。。
人のしんどさを勝手に非難、批判、判断、評価して決めつけることなく、どう自分のしんどさとをつなぎ合わせて、一緒に「生きづらい社会」を生き抜く術を考えだすか。
専門家や専門職が課題や生活を変える訳でもないので、任せる人を探しても仕方がない。
私のしんどさは、周りの誰かのしんどさ。
自分一人では解決できないしんどさは誰にでもある。
一人でもそのしんどさを一緒に向き合ってくれる人が誰にでも必要だと思う。
そこを"支援者"だけに求めるのは誰も求めてることじゃないと思う。
もちろん、血の繋がった"家族"に求めるだけでもない。
毎日顔を合わせる人だからこそ言える本音もあるし、1週間に一回だからこそ、1年に一回だからこそ、、、といろいろな距離の関係性があるといいな。。。
そういう意味で、働き方改革も子どもの貧困対策も地続きであって、子どもも高齢者も誰か特定の層に得をさせようという話でもなくて、みんなでどう荒波を超えるかの話でした。
乱暴な話ではすいません。